伊賀国の城砦と地理・地図・架空地図を語るブログ(仮)

伊賀国(伊賀市・名張市)の城跡と、地理・地図・架空地図を語っていくブログです。

福地城(伊賀市柘植町)

福地城は、伊賀市柘植町にある城跡です。

城主・城史

城主は福地氏。福地氏は伊勢平氏の傍流である平宗清を祖とする一族で、戦国時代には柘植(旧伊賀町)の有力な国人である「柘植三方」を日置氏、北村氏とともに構成していました。
安土桃山時代の1581年、第2次天正伊賀の乱が起こった当時の城主は福地伊予守宗隆。福地宗隆は伊賀を攻めた織田信長に味方して勢力を拡大したものの、翌1582年に本能寺の変が起こって信長が没すると、伊賀の国衆に裏切り者として攻められて国外へ逃亡したと伝わります。

写真・解説

福地城跡は現在、芭蕉公園として整備されています。

上記の写真にもある通り、伊賀国では珍しい石垣を用いた城でそれらが良好に残っているために、三重県の指定史跡にも指定されています。

福地城跡の石碑。ここからも虎口へ登ることは出来ます。

一旦アクセスした道を下り、恐らく平時の居館があったであろう敷地を臨みます。

本郭の下にある削平地。削平地は1枚目の案内板では「帯郭」と称しています。
今回は下の写真の側から虎口へ登ります。

階段を登ると、石垣が見えてきます。

階段を登って右手に、再び削平地。

ここも削平地。

いよいよ虎口を臨みます。
先程も言及しましたが、伊賀国の城で石垣を組んであるのは珍しいと思っていいです。
右手には懐石料理屋があります。

虎口から本郭に入る前に、空堀を臨みます。

本郭の中は、上述した通り芭蕉公園として整備されており、この地に産まれた松尾芭蕉を顕彰する石碑、句碑などが建っています。
本郭自体も、伊賀国の城跡の中では広め。福地氏の持っていた力を推察することが出来ます。

本郭から南側の土塁を臨みます。

芭蕉翁生誕之地」の石碑。
上述した福地氏の一部が後世「松尾」と改姓し、そこから松尾芭蕉を輩出しました。

本郭を囲む土塁に登って、内部を撮影。

土塁は比較的良好な状態で残っています。

虎口を土塁の上から撮影。

土塁の北西側。生い茂った藪で分かりづらいですが、真下に空堀があり、その向こうに削平地が見えます。

土塁の北東側。こちらは急峻な崖。

土塁の南東側。写真ではほぼ分かりませんが、直下に名阪国道が走っています。

推察・感想など

福地城は伊賀の城砦の中でも大規模なものであり、アクセスが平易でしっかりと整備がされていることから、初心者にはうってつけの城跡と言えます。
福地城に石垣がある理由については、上述したように第2次天正伊賀の乱で福地宗隆が織田信長に与したことで織田氏の影響を受けた(この時織田家臣の不破彦三を城に置いたと言う)からではないかと筆者は推測します。以下、あくまで筆者の思い付きなのであまり信用しないように!
伊賀国で織豊系城郭と言えば、伊賀上野城を除けば丸山城が挙げられるかと思いますが、この丸山城も石垣を使っていた城です。ただ丸山城が初めから大規模に縄張りされていたのに比較すると、福地城は元が伊賀の土豪の城だったので、石垣はおそらく何らかの段階で取って付けたものではないかと推測しています。
実は石垣を用いた(であろう)伊賀の城砦は丸山城、福地城以外にもあるので、それはそのうち紹介できればと思いますが、何らかの織豊系大名とのマッチングを思わせるものが多いのではないでしょうか。